戦国小町苦労譚
千五百六十六年 六月上旬
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目の前で仲間の姿が消えた事に、野盗たちは酷く狼狽した。
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せわしなくあちこちを見回していた野盗の一人は、仲間が消えた原因を目にする。
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「ヒィィ!」
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「どうした……な、なんだ! この化け物は!」
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男の悲鳴に反応して、野盗たちは一斉に視線をそちらへ向ける。
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そして最初に反応した男と同様に恐怖に呑まれた。
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痛みに顔をしかめながらも、静子は野盗が見ている方向へ顔を向けた。
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そこには巨躯とも言えるほど大型の、頭胴長で一四〇センチ近くあるオオカミがいた。
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そしてオオカミの近くに、静子の前にいた野盗が倒れていた。
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首をあらぬ方向に捻じ曲げられ激しく出血していた。
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横合いから男の首を噛み、その咬筋力でいとも容易く首をへし折った。
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オオカミの咬筋力は一八〇キロもあるため、栄養が足りないこの時代の人間の骨など軽く噛み砕けるのだろう。
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そんな化け物以外の何者でもないオオカミを見ても、静子は不思議と恐怖を抱かなかった。
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彼女はそのオオカミの名を知っている。
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「……ヴィットマン?」
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それが自分の所にいたオオカミだと直感した。
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確証などなかったが、それでも彼女はそう思わずにはいられなかった。
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そしてそれに答えるように、オオカミは一度吠えた。
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それを聞いた野盗たちは手に持っていた武器を地面に落とした。
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当時の人間は一五〇センチも身長がない。
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比較的栄養状態の良い武将ですら、一六〇センチもあれば御の字だ。
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そこへ肩までの体高が八〇センチ近いオオカミが出てくれば、それだけで死を予感する。
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更に辺りは闇に閉ざされ視界など無いに等しい。夜目が利くオオカミ相手に勝つのは至難の業だ。
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恐慌状態に陥った野盗たちへ、オオカミは大きく吠える。
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すると別の方向から、茂みを掻き分ける音と共に別のオオカミが姿を現した。
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最初のオオカミより一回り小さいが、それでも十分驚異的なサイズだ。
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目立つ特徴として、そのオオカミは額にバツ印のような傷跡があった。
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「ヒ、ヒィィー!」
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二匹目が出てきた事で、進退窮まった野盗たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
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オオカミは追わなかった。逃げる野盗たちなど、追う価値がないものにしか見えなかった。
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どちらが勝者か、それだけで簡単に分かった。
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「お帰り、ヴィットマン」
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そう呟いた静子の声に答えるように、ヴィットマンは小さく吠えた。
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当然ながらヴィットマンとその妻の狼が村に入った時は大騒ぎになった。
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驚異的なサイズのオオカミが二匹も村に入ってくれば、知らない人間からすればパニックものだ。
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驚くなという方が無理な注文である。
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しかし驚いていたのはもっぱら入植者たちだけで、元からいた村人たちは「また村長が何かした」程度にしか思っていなかった。
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一年間静子に鍛えられたお陰か、彼らはまさに無神経なほど物事に動じなかった。
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日もくれ夜になっていたが、流石に入植者の不安を無視する事は出来ず、ヴィットマンについて説明する必要が出てきた。
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一時間の説明を終えた後、ようやく納得してくれた入植者たちだが、かと言って完全に不安が払拭されたわけでもなかった。
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(暫くは我慢するか)
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全員が全てを一度で受け入れてくれる事など、ないものねだりで妄想に近い希望的観測だ。
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時間が解決する以外に方法はない。そう理解した彼女は、くよくよしても仕方ないと思った。
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しかし静子の知らない所で、入植者たちは彼女に対する評価を改めていた。
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今までは頼りない少女にしか見えなかったが、オオカミ二匹を従えている姿を見て『実は彼女は大物か?』と思い始めた。
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失敗すればどのみち斬首なので、彼女に最後のチャンスを託そうと思った入植者たちは、今までと違ってやる気を出すようになった。
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そんな入植者たちの考えが変わって少しした頃。
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催芽(発芽)を終え種まき準備完了となった種籾が揃ったので、次の工程である播種作業を行った。
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これは二月下旬で準備していた土地を使う。そこへ種籾を均一に並べていく。
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ここで育てた苗を後で本来の田んぼへ植える予定だ。
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やはり入植者たちは不思議そうな面持ちだったが、今までと違って素直に静子の命令に従った。
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苗が育つまで少し時間が出来る。
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その間を無駄にしない為にも、田植えを行うための田んぼの準備に取り掛かった。
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まず浅く耕す荒起こし作業。荒起こし後、水を入れて行う荒代かき。荒代かき後、数日置いてから仕上げの植代かき。
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それらの工程が終わった頃、苗は充分な大きさに育っていた。
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次の工程は米糠と苗を使って、一番大事な田植えを行う事だ。
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ここが正念場であり、田植えを入念に行うか、否かで収穫量が大きく左右される。
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苗に安心して手を抜いた為に収穫量が雀の涙程度、などとなっては元も子もない。
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苗を植える上で現代では定石となっている手法について、当然ながら村人たちの誰もが知らない。
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ここで静子は正条植と呼ばれる、稲の苗を縦と横の筋をそろえて植える方法を使う。
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当時はこの植え方にせず「乱雑植え」と呼ばれる方法で植えていたため、収穫量は常に悪く、酷い時には全く育たない時もあった。
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だが乱雑植えを正条植に変えるだけで収穫量は格段に上がる。
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その理由は日が十分にあたり、空気が通りやすくなり、雑草や害虫を取り除きやすいというメリットがあるからだ。
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なお、技術的には明治三〇年代後半の頃に実施されたので、約200年ほど時代を先取りした技術と言える。
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だがその効果は絶大で、それ以降正条植は米栽培の基本とも言えるほど常識的な植え方となった。
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しかしメリットだけではなく、当然ながらデメリットも存在する。
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まず戦国時代に苗植えの機械は存在しない。しかし正条植をするには、正確に縦横を合わせて行う必要がある。
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この問題に対して静子が出した解決策は、「枠まわし」という道具を使って、植えるポイントを予め確定しておく事だ。
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読んで字の如し、「枠まわし」を転がすと苗を植えるポイントが田んぼに出来る。
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だが田んぼの中で直接「枠まわし」を回せば、水が泥によって汚れてしまい、折角ポイントを作っても探す必要が出てくる。
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その問題を解消するため、彼女は田んぼの端から端まで伸ばせる長い縄を用意した。
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そして「枠まわし」で植えるポイントを決定し、その場所と縄が重なった所へ藁を結びつける。
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こうする事で、藁を目印にすれば水の中を探らなくても植えるべき場所が分かる仕組みだ。
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だが苗を植え終えても、それで終わりではない。米ヌカを散布する必要がある。
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米ヌカを散布する理由は三つある。
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一つ目は分解発酵過程で生じる有機酸によって雑草の発芽発根を抑制する事。
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二つ目は微生物が増殖する事。
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三つ目は微生物が増殖する事で稲への養分供給が行える事。この三つだ。
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田植えが終われば後は放線有機の散布と、除草作業だけになる。
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放線有機とは土、米ヌカ、鹿の内臓、鶏の内臓、骨粉、腐った肉、腐った野菜、鶏の羽軸と有効微生物を混ぜて作った発酵肥料だ。
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これによって土中の微生物が働きやすくなる。天然の緩効性肥料として水稲元肥用として最適な肥料だ。
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ただし適時稲の様子を見ての散布になるので、どれぐらい使用し、何度散布するかは田んぼ次第だ。
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だが肥料は経験に基づいて散発的に行うのみであり、まだマシと言える。
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田植えの次に労力を要するのは除草作業だ。しかも過酷な労働を強いられる割に、成果が目に見えにくい。
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そこで静子は回転式田草取り機という、稲と稲の間を転がして、田んぼの中に生えている雑草を根こそぎ引っこ抜く道具を使う事にした。
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当然ながら戦国時代には存在しない道具なので、静子は村の技術者たちと話し合って作り上げた。
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回転式田草取り機の原型は明治に作られ、大正の初め頃には広く使われるようになった。
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一日二〇アールほどの作業能率で、稲株の間をガラガラころがしながら中耕除草を行える優れものだ。
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中耕とは作物の育ちをよくするため、発育の途中で表土を浅く耕す事だ。
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これにより土が撹拌されほぐされるので、根に酸素が送り込まれ呼吸や発根が促される。
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また肥料の吸収も促進されるのだ。更に土中にある有害ガス(硫化水素、メタンガスなど)が抜け、雑草を防除出来る。
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言ってしまえば田植えが終わった後は、収穫までこの中耕除草がメイン作業となる。
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そして稲作作業では過酷な作業の一つなのだ。
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能率を上げるためには必要な道具なので静子は妥協せず、効率が上がるものを作り上げた。
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中耕除草は田植えの一週間から一〇日後、苗が活着したら行うのが一回目。
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その後、一〇日ごとに二回中耕除草を行う。数は少ないが、その分一回の作業が過酷だ。
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そんな中耕除草だけを残した六月のある日の事。
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ヴィットマンが連れてきたメスのオオカミ(静子名バルティ)が、五匹の子供を産んだ。
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村に初めて新たな生命が誕生した日だ。
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「可愛いー」
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目が開いたオオカミの子たちを見て、静子はほっこりした笑顔を浮かべた。
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流石に撫でたり、間近でじっと見ているとバルティが怒るので、結構距離をあけていたが。
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動き回れるのは後一週間から二週間後だが、それでもキョロキョロと辺りを見回すオオカミの子供に自然と顔が緩む。
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「可愛いー」
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一週間後が楽しみな静子だった。しかしそれを面白くないと思う存在がいた。
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ヴィットマンだ。彼は一年近く静子と一緒にいて、愛情を一身に受けていたので、当然ながら子供へ愛情が向くのは面白くない。
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自分の体を摺り寄せたり口元を舐めて大好きアピールしたりした。しかし完全に自分だけに向けるのは叶わなかったようだ。
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普段は獣の声を上げるヴィットマンだが、この時ばかりは子犬のような声をあげていた。
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「はいはい、ヴィットマンも可愛いよー」
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ヴィットマンの大好きアピールに答えるように、静子は過剰気味に頭を撫でながらそう言った。
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それだけで尻尾をぶんぶん振るヴィットマンだが、いかんせん彼はサイズが大きい。
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何十センチもある尻尾を振り回されれば、それだけで軽い凶器へと変貌するのだ。
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「わわっ! 嬉しい気持ちは分かったから落ち着こうー!」
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案の定、周りの物をなぎ倒してしまう始末だ。
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そして静子に叱られたヴィットマンが悲しそうな声を上げて、それを聞いたバルティが笑うような声を上げた。
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六月が終わり季節は七月。
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当初は回転式田草取り機に戸惑っていた村人たちも、後半になれば慣れたもので一日程度で作業を終わらせていた。
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七月に入れば除草作業もほぼ終わりを迎える。残りの作業は殆ど害虫対策になる。
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何しろ田んぼには立派に育った稲がところ狭しと並んでいるのだ。村人たちの誰もが「これほど多くの稲穂が並んでいる所を見たことがない」と漏らしたほどだ。
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さぞかし大量に収穫出来るであろう未来が予測できた。
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害虫対策以外にもやる事はある。
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まず溝切りという二メートルから三メートル間隔で排水の為の溝をつけていく。
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これによって収穫までの水管理もやり易くなるので、手を抜く事の出来ない作業だ。
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田植え後三十五日で分蘖(ぶんげつ)数が最高になると言われているので、中干し、土用干し、と呼ばれる土を乾燥させる作業も行わなければならない。
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排水のための溝を使い田んぼから一度水を抜く。
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土用干しを行う理由は、過剰となる分蘖、無効分蘖を抑え、土壌中に酸素を供給し、微生物の死骸を肥料分とする。
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また土壌を固めて稲が倒れる事を防ぎ、地割れを起こさせて好気的な環境を作り、腐敗による発酵を止めてメタンガスの発生を防ぐ。
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更に地割れで稲の根に刺激を与え、根を地表型から地中型に切り替えさせる。
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そのような効果が期待できる。
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(窒素を減らせば、必然的にカメムシ類も防げるしねー)
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稲の害虫といえばカメムシが筆頭に上がるが、農薬を使わなければカメムシは発生しにくい。
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それは窒素を吸収した稲が、カメムシにとってご馳走になると言われているからだ。
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だが戦国時代に農薬など手に入るはずもなく、当然ながら無農薬かつ有機栽培をする以外にない。
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その関係でカメムシの天敵が田んぼに住み着いたりするのだ。
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(意外と害虫対策はしなくてもいいかも?)
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稲にとって害虫になる生物が住み着いても、それを餌とする天敵が同じように住み着く。
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勿論、雑草を除去するのが何よりの害虫対策なのは言うまでもない。
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田んぼの中は勿論、畦草刈りも徹底的に行なった。
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そして除去した雑草を腐葉土の材料とする。
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田んぼの中で綺麗なサイクルが出来上がり、全てを無駄なく使えた。
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そして収穫まで除草がメインとなった八月のある日、今まで動かなかった信長がついに動いた。
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永禄九年(1566年)の八月、信長は木曽川を渡って美濃に侵入した。
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その一報を受けた時、静子の頭には『敗退』という文字しか存在しなかった。
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(確か洪水にあって敗退し、秀吉を使って美濃と尾張の国境に位置する要衝の墨俣に築塁させたんだよね。そこが斎藤龍興の居城稲葉山井ノ口総攻撃の前線基地になった)
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そんな事を思い返した静子だが、既に結果の分かっている事に対して頭を悩ませても意味は無い。
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そう結論を出すと、頭を軽くふってそれらを追い出す。
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気持ちを切り替えると、目の前に広がる稲を見て満足気に頷く。
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「うんうん、良い感じに育ってきたね。これなら当初の予定通りの収穫量かな」
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正直8haという土地を数十人程度で作業するのに、少々不安だったが何とか収穫一歩手前までこぎつけた。
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だが彼女はこれだけの稲を見ても安心していなかった。
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(お館様の事だから、来年辺りに滅茶苦茶無理難題言ってきそう……)
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来年の今頃に織田信長は美濃を支配下に置く。そうなれば尾張・美濃と合わせて百万石の生産地域を手に入れる事になる。
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静子へ生産量の増加を命じるのは予想というより必定だった。
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(その為にも、金造さんに頼んでいる人力田植え機の完成が待ち遠しい。あれが完成すれば一〇アールを僅か三時間で苗植え出来るんだから)
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なお、その金造は静子の書いた人力田植え機の設計図(と言う名の落書きレベルのもの)を見て、頭を抱えている事を彼女は知らない。
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人力田植え機、回転式田草取り機、足踏式脱穀機。どれもこれも農作業の中で過酷と言われている作業を軽減するための道具だ。
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この道具があるとないでは農作業にかかる時間が段違いとなる。
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その上、女子供や老人でも作業が出来るので、戦場にいかない人種で農作業を行う事が出来る。
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それぐらい作業の負担が減るという事だ。
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そうなれば家族によって畑や田んぼ作業を分ける事だって可能だ。
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「さーて、来年辺りは60haぐらい広大な土地を貰うかな」
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野菜や薩摩芋の土地は現状のサイズで十分だった。
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収穫出来た春野菜は、農民たちは勿論、献上した信長にも好評だった。
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しかし戦場でも使うのはやはり米だ。
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美濃を手に入れた後、信長は戦争を行う回数が多くなったので、更なる増産を命じて来るだろう。
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米が大量にあるかないかで、兵士たちの食糧事情が異なってくる。
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「鶏卵産業も順調になってるし……でもカイザーたちが襲いそうな予感」
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カイザー、ヴィットマンとバルティの間に生まれたオオカミの子供。
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既に二ヶ月経っているので、社会性を認識しており離乳も済んでいる。
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そろそろ巣穴である静子の家から離れるようになる頃だ。
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その中で既に順位が出来上がっており、順位に合わせてカイザー、ケーニッヒ、アーデルハイト、リッター、ルッツと名付けた。
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皇帝、王様、貴族、騎士、戦士という階級そのままの意味だ。親がドイツ語だったので子供もドイツ語という安直なネーミングだ。
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「まぁその時はその時ね。適度に狩りをさせないと衰えちゃうし」
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飼育下に近い形だが、当然ながら家族が出来ればオオカミは狩りに出かける可能性が高い。
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ただその時野生の鹿を襲うのなら構わないが、鶏卵産業用の鶏を襲われてはたまったものではない。
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「幼少の頃から教えこむしかないね」
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それでも何羽かは犠牲になるだろうな、そう思った静子は未来を想像して重い溜息を吐いた。