戦国小町苦労譚
千五百六十五年 五月中旬
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捕獲した鹿はどちらも生きているが、それでよいと静子は思った。
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野生動物は素早く処理しなければ、肉に特有の臭みが出る。
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一匹はテキサスゲートから動けないが無傷、もう一匹はトラバサミに引っかかって足を損傷している。
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どちらを先に処理するか明白だ。
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「先に罠にかかった方を処理するよ。事前に言っていた準備は出来てる?」
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「問題無いです、村長」
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静子の問いに村人たちは一斉に頷く。
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それを見て、静子は手に持っているスタッフスリングに石を装填した。
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「それじゃあ行くよ」
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その掛け声と共に静子は立ち上がり、隠れていた草むらから飛び出す。
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静子たちに気付いた鹿は逃げようとするが、どちらも身動きが取れない状況である。
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「上手く当たるかな……えいっ!」
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静子が暴れている鹿の後頭部目掛けて振り下ろすと、装填された石は綺麗に弧を描いて鹿の後頭部に直撃した。
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衝撃で脳へダメージを負った鹿は、ふらふらと体を揺らした後地面に倒れた。
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少し様子を見たが、鹿は起き上がる事なく完全に気絶していた。
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「後ろ足から縛って! 終わったら罠を解除して前足の拘束!」
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「分かりました!」
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鹿は死んでおらずいつ起き上がるか分からない。
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運搬中に意識を取り戻して暴れられたら大変危険だ。
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しかし慣れていない村人たちは、鹿の足を縛るのに手間取っていた。
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「それじゃあ、そいつを持って屠殺場に行くわよ」
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運良く鹿が起き上がる前に両足を縛る事が出来た。
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それを担いで川付近に設置している血抜き用の吊るし場所まで移動する。
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血抜きをすれば血圧低下で暴れたりするような事がないからだ。
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農場の近くに川がある立地なので、到着まで十分もかからなかった。
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村人たちは担いでいる鹿を吊るし場所に設置する。
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「それじゃあ私が解体するから、暫く待っててね」
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「へい、でも村長って鹿の解体が出来るんですか?」
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「んー、まぁお爺ちゃんがやってるのを昔から見てたし、実際何度か解体はした事あるよ」
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そう言いながら静子は解体用のナイフを用意する。
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十四歳の誕生日に祖父からプレゼントされた野生動物を解体する為のナイフセットだ。
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現代日本なら銃刀法違反で逮捕されるような長さのナイフから、関節を分解するような小型のナイフまで多種多様なサイズがある。
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女子中学生に狩猟の為のナイフセットをプレゼントする祖父は如何なものか、という突っ込みはあるが静子はこのナイフセットを気に入っていた。
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鹿や猪などの野生動物を解体する技術については、猟友会所属の祖父の友人や祖父から教育を受けた。
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若干十代の若者ながら、静子は野生動物の解体をこなせるエキスパートだった。
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解体用のナイフを手に持つと静子は鹿の頸を切る。
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頸動脈を切れば脳の血圧が下がって、一瞬で意識も無くなるが心臓は意識が無くなっても動き続けるので、毛細血管の血まで吸い出してくれる。
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鹿にも余計なストレスをかけず血抜きが出来る。
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(……戦国時代じゃなかったら鹿を殺すなんて可哀想、残酷って無責任な発言が出来る人が出てくるだろうね)
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現代では牛肉や豚肉がどういった方法で処理されているか殆どの人間は知らない。
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だから野生動物の屠殺現場を見て「可哀想」とか「残酷だ」という無責任な発言が出来る。
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しかし祖父の教育を受けた静子は、それは偽善以下の最低な発言だと考えていた。
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(生きるって事は他者の命を奪う事。物を食べるって事は他者の命を頂く事。生きるためには殺生が必ずある、それが根本。屠殺場を見て可哀想とか残酷なんて考えは下らない……か。ほんと、食べる事に苦労して初めて実感したよ、お爺ちゃん)
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顎からボタボタと落ちていく血を見て静子は思う。
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頭から下全てを無駄なく処理し、一つも無駄にせず全てを使い尽くすと。
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それが鹿への供養になると思って。
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「血抜きはそろそろいいかな。じゃ内臓を摘出していくね。木桶を二つ用意、一つは川の水を入れておいて。もう一つはそのままでいいよ」
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「分かりましたー!」
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肝臓とそれ以外の内臓を分けるため、静子は木桶を二つ用意するよう村人に頼む。
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何故わけるかというと、肝臓はビタミン補給が出来る上に増血作用のある食べ物だからだ。
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適切な処置をすれば塩を振って焼くだけで食べられる。
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しかし他の臓器には寄生虫がいる可能性が出てくる。
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よってこちらは木桶に入れて放置し、腐らせて発酵後堆肥の材料にする。
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「水入り木桶用意しましたー!」
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「ありがとう」
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内臓除去が完了し全てを水の入っていない木桶に入れる。
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そしてその中から肝臓だけを取り出すと、ナイフを入れて水の入った木桶の水で洗う。
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「鹿を下ろして川の水で洗って。足を持って水の中で上下させるといいよ」
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「へーい」
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最後の血抜きを村人に頼むと、静子は肝臓にある薄皮を剥がして更に血抜きを行う。
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肉は燻製にしても食べる事が出来るが、肝臓は早めに食べないと傷んでしまう。
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(足の早い食べ物から処理していかないと……とりあえず手を洗って次は皮剥ぎかな)
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一匹目を川の水にさらした後、同じように二匹目も血抜きと内臓摘出処理をする。
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そして二時間から三時間ほど川の水にさらして、血抜きと低温処理を行った。
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その間に肝臓は塩を振り焼いて食べた。
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一日二食のこの時代、昼間に食事をする習慣はないが、冷凍保存も出来ないので野ざらしにしておくわけにもいかない。
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よって間食みたいな扱いで、肝臓だけを食べる事にした。
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最初は戸惑っていた村人たちが、肝臓の美味しさに気付いた後は我先にと取り合っていた。
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「今度は頭を上に吊るしておいて」
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そろそろ頃合いと思った静子は、川から鹿を取り出す事にした。
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「はいー」
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静子の命令に元気よく返事を返すと村人たちは頭を上に再度吊るし上げる。
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解体用のナイフと自身の手を洗い終えた静子は、今度は皮と肉の解体に取り掛かる。
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(皮剥ぎが終われば後ろ足の処理をしないとね)
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首まで皮剥ぎを済ませると、次は後ろ足の解体をする。
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背骨に続く腰骨に沿ってナイフを入れて行き、関節の中心に有る腱を切る。
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それだけで簡単に解体できるが、実際は熟練の腕を要求される。
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後脚、そして前脚の取り外しが終わると次は背ロースを外す。
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背骨の内側にある内背身(ウチセミ)、胴体内側のヒレ肉、あばら周辺のバラ肉、首まわりの肉と、胴体の肉を部位ごとに解体していく。
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全ての肉を解体し終えると、今度は足の中心に通っている骨を取り外す。
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前足だけ羽子板状に入っている肩胛骨が面倒だったが、何とか綺麗に外す事が出来た。
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モモ肉から骨抜きが終わったら次は頭部から頬肉とタンを切り取る。
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(ふぅ……結構な労力だなぁ。お爺ちゃん、こんなのをいつも一人でやってたのかぁ)
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鹿一匹を完全解体するのですら重労働だった。
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正直、もう一匹の処理なんてだるいと思った静子だが、そうも言っていられない。
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「後は一人で大丈夫だから農作業をお願いします」
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「了解しましたー」
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鹿を吊るし終えた村人に静子は農作業を行うよう命じる。
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朝から鹿対策に取り掛かっていたので、今日するべき農作業が何も行えていなかった。
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去っていく村人たちを見送った後、静子はやる気を起こして肉の解体に取り掛かる。
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そうしてもう一匹を同じように解体し終えた頃には、結構な時間が経っていた。
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「やっと終わった……」
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全身の疲れをとるように伸びをしながら呟く。
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だが解体しただけで終わりという訳にはいかない。
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次は解体した大量の肉を手頃なサイズに切って塩漬けにする必要がある。
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冷蔵庫も何もないこの時代、肉をそのまま放置すればいずれ腐る。
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食料が安定供給されている現代なら気にしないだろうが、戦国時代では肉は重要なタンパク源だ。
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おまけに676年の肉食禁止令において、ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリを食べることが禁じられている。
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(確かニワトリが食べられるようになったのも、江戸時代に入って無精卵は孵化しない事が発覚してから……だったね)
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それまでニワトリは時を告げる鳥として神聖視され、主に愛玩動物として扱われた。
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だから鶏卵産業は戦国時代の日本には存在しない。
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(食べる事すら必死なのに、重要なタンパク源を捨てるなんて……どんだけドMだったの昔の人たちは)
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少しだけ呆れつつ作業を再開しようとストレッチをした所で、後ろに何かの気配を感じた。
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何気なしに振り返ってみると、そこには一匹の獣がいた。
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その獣は長い毛で覆われた四足歩行の動物だった。
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もっと言うならネコ目(食肉目)イヌ科イヌ属に属する哺乳動物、つまりオオカミだった。
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(ど、どどどどどうしよう。まさか血肉の匂いに誘われて!?)
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静子の背後には解体された鹿肉が山のように積まれている。
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鹿の肉から漂う匂いに誘われて人里に姿を現したと考えて間違いないだろう。
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何しろオオカミは三キロ以上離れた仲間の匂いに気付くほど、嗅覚に関する能力は優れているのだ。
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(今、村人は皆出払っている……私ピンチ!?)
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武器も何もなく絶体絶命のピンチを理解した静子は背筋に寒気が走った。
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だがオオカミをよく見れば、奇妙な動きをしていることに彼女は気付いた。
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(あっれー? なんか……かなりふらふらしてない?)
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目をこすってもう一度よく見てみる。さっきからオオカミは微妙だが左右に揺れていた。
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先ほどは恐怖で分からなかったが、体も痩せ細っており殆ど骨と皮にしか見えない。
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物凄く衰弱している状態なのは、静子の素人目にも簡単に分かった。
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よくよく考えれば最初からおかしかった事に静子は気付く。
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オオカミは群れで狩りを行うので、一匹だけ姿を現すという事は基本的にない。
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なのに集団が現れるような気配がなかった。
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(つまり一匹狼って事ね。それだったら衰弱の理由は説明できるわ。何せ集団で狩りをしても成功率は十パーセント以下だもん。一匹なら更に成功率が低いと言ってもいいわ)
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衰弱しているなら歩くのすら困難な状態だ。
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だが死に物狂い、という言葉もある。慎重に慎重を重ねなければ、喉笛を喰い千切られる。
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そう思った静子は緊張感を漂わせながらも、オオカミの動きを注視する。
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暫く睨み合う状況だったが、その状況はあっさりと終わりを告げた。
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目の前のオオカミが、突然ゼンマイが切れた人形のようにパタリと倒れたからだ。
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突然過ぎて静子は最初何が起きたか分からなかった。
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「うわ! だ、大丈夫!?」
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限界に達した事に気付いた静子は、慌ててオオカミの元に駆け寄った。
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無警戒に抱き起こしたが、それをオオカミが嫌がる様子はない。
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否、嫌がる事すら出来ないほど体力がないのだ。
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「か、軽すぎ!? 何日食べてないのよ!?」
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元の体重は知らないが、抱え起こしたオオカミは十キロもあるか怪しかった。
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「このままじゃ衰弱死しちゃう」
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オオカミを地面へ下ろすと、静子は鹿を解体していた場所に急いで戻る。
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適当な肉を掴むと、それを解体用のナイフで細かく刻んでいく。
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「今の状態じゃ噛む力もないでしょう。こうやって小さく刻んで……」
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鹿肉を粗みじん切りにすると、その辺りに転がっている木桶へ川の水を入れる。
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「ほら、これで食べられるでしょう」
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肉と水を持ってオオカミの元に戻ると、静子はオオカミの口元に肉を差し出す。
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匂いに気付いたオオカミは静子を少し警戒したが、空腹が限界だったのか肉を食べ始める。
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衰弱しても噛む力はあったのか、何度か咀嚼しつつ肉を食べていた。
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「水も飲みなさい」
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木桶を目の前に置くと、今度は警戒せず中に入っている水を飲み始めた。
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本当に衰弱していたようで、オオカミは暫く水を飲み続けた。
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「あーあ、ほんと……偽善以下だなぁ」
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自然界は弱肉強食、餌をとれなかった個体は死んでいくのみ。
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先ほどまで襲われていたのに、目の前で倒れられたら思わず助けてしまう。
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自分で自分の行動に呆れた静子は、呆れるようなため息を吐いた。
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「でも……見捨てられなかった……ね」
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それから少した後、作業から戻ってきた村人たちがオオカミを見て、悲鳴を上げたのは言うまでもなかった。