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戦国小町苦労譚

千五百六十八年 十二月中旬

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濃姫お抱え料理人達と静子一行の双方が村を目指し移動していた。お互いが顔を合わせる事なく、静子一行が先に村へと到着した。

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彼女は村に到着後、五百名の兵士を解散させてから自分の荷物を片付ける。

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慶次は酒を片手に風呂へ、長可は甲冑姿のまま山へ突撃、残った才蔵だけが静子の護衛を務めていた。兵士たちも見慣れたいつもの光景だ。

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静子は荷物を片付けると畑へ移動する。白菜が収穫時期なので、今日収穫出来るものを探す為だ。

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栽培している白菜は大型故に、籠に一つか二つしか入らない。そのため才蔵も籠を背負って収穫を手伝った。

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静子が背負っている籠に二つ、才蔵が背負っている籠に二つ、彼が片手に持っている一つ、合計五つを収穫した。

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「時間的に浅漬けが作れるかなぁ」

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「某はこの様な作物、初めて見ます。それ故、少々期待しております」

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作物が少ない戦国時代、多種多様の作物が手に入る環境はそれだけで娯楽となる。

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気難しい性格の才蔵は最初こそ過分な贅沢は問題と考えたが、静子の『全てのものは仏の前では平等』という言葉に納得し、彼女指定の食生活を取り入れる事を是とした。

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新しい生活習慣が馴染んだ今は、酒は嗜む程度に飲み、鶏や鹿などの獣肉、干し魚や干しイカなどの海産物、村で栽培されている野菜類を好き嫌い言わず食べている。

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「浅漬けと塩漬けを作ろうか。夜は鍋の具材かなぁー」

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「お待ちください静子様。その様な事を聞かされたら、腹の減りが早くなってしまいます」

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「ああ、ごめんね。浅漬けはすぐ作れるから、さっさと作ろうか」

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収穫した白菜を抱えて家に戻る。この時、静子は彼女を探している彩とすれ違ってしまった。

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その為、濃姫が信長の別荘にいる事も知らず、静子は普段入らない調理場で白菜の調理に取り掛かる。

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「浅漬けは梅干しと塩昆布があればいいね」

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基本的に白菜は乳酸菌発酵させて食べるお漬物ではない。故に他と違ってお手軽なお漬物が作れる。

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まず白菜をよく洗って汚れを取る。次に芯の部分を5ミリ程度、葉の部分を一センチ程度に切ってザルに入れる。

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塩昆布も適当なサイズにカット、梅干しは種を取って手で手頃なサイズに千切る。

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水切りが終わった白菜、梅、塩昆布をボウルに入れ、優しく揉みながら三つの材料を混ぜる。

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しんなりしてきたら落し蓋をして三〇分ほど寝かせる。

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「はい、出来上がり!」

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寝かせた白菜を洗わず、軽く絞った後皿に盛るだけで完成だ。

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「……梅干しが入っているので少々酸っぱいですが旨いです。飯が欲しくなるのが難点ですな」

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「まーねー」

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相槌を打ちながら静子は白菜の一つを四等分する。残り三つはそのまま何もせず、布で包んで冷暗所に保管する。

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常温(五度から一〇度)でも丸ごとなら三週間は保管可能だが、なるべく氷室のように零度近い環境におけば四週間近く保つ。

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必要な時に必要な分を小まめに収穫するようにしているが、出来うる限り長期保存出来るように心掛けている静子だった。

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「これは天日干ししておこう」

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「某は飯が欲しい所です。そういえば彩殿の姿が見えませぬ。彼女が昼食時に長時間家を空ける事などなかったはずですが……」

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「珍しい事もあるものだねー」

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そう言った後、天日干し用の白菜を抱えて静子は家の外に出る。瞬間、先ほどまで話に上がっていた彩が目の前を通り過ぎていった。

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だがすぐに立ち止まると、すごい勢いで静子の方へ振り返り、駆け足で彼女の元へやってきた。

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「ふぅ、はぁ……探しましたよ、静子様」

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「おや? お館様から伝令でもきたの? ごめんね、白菜の収穫をしていたから、どこかですれ違ったかも」

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額の汗を拭って呼吸を落ち着けている彩に、静子は申し訳ない顔をする。

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最初は頬が上気していた彩だが、呼吸が落ち着くといつものポーカーフェイスに戻った。

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勿体無い、と少しだけ思った静子だった。

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「濃姫様がご来訪されております。申し訳ありませんが、お相手お願い致します」

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「えー、また何で……」

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「なんでも珍しい料理人を自慢……コホン、紹介したいとの事です」

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「そっちが本音だよね。分かった、とりあえず彩ちゃんには申し訳ないけど、少しだけ手伝って。あ、ご飯が余っていたら才蔵さんに出してくれるとありがたいかも」

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「問題ありません。今朝、炊いた米が残っているはずです。それを才蔵様にお出しします。ではまた後程」

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それだけ言うと彩はすぐに才蔵の元へ向かった。

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濃姫肝いりの珍しい料理人、という触れ込みだったが、彼女は余り期待をしていなかった。

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それは静子の料理に対する考えが、主に「安価で食べやすく栄養豊富である料理」が目安になっているからだ。

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勿論、美食を求めるのが悪いとは言わない。旨い料理を食べるだけで心が癒やされる事もある。

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「珍しい料理人ですか。興味はそそられますが、贅を凝らした美食は身に余ります」

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「おお、静子も言うようになったな。ま、主から見れば面白くもないだろうが、たまには妾の趣向に付きおうておくれ」

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「はぁ……」

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「そうそう、お市へも『たまにはこちらへ遊びに参れ』と書状(しょじょう)で誘ってはおるのだが、浅井殿が許可しないとの事じゃ。まったく、器の小さい男はこれだから困るのぅ」

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「(へ、返答に困る事を……)ま、まぁ奥方が心配なのでは……?」

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お市の方と浅井長政は、夫婦仲が良い事で有名だ。現代に伝わる史実では信長を裏切った後でも、夫婦仲に亀裂が入る事なく、仲睦まじい夫婦生活を過ごした。

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お市は茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)の三人の子がいる。

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茶々が生まれたのが永禄一二年と言われているので、今は子を一人も産んでいないが。

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「(あ、つまり子が生まれそうだから許可が下りないのかな。それなら納得)」

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「何を呟いておる。それにしても、はくさいとやらの料理はまだかえ。妾は楽しみで仕方ないぞ」

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待ち遠しいといった感じで濃姫は期待せずにはいられなかった。その雰囲気が逆に静子を冷静にさせたのか、彼女は珍しく泰然としていた。

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それは間もなく供されるであろう料理よりも、現在手掛けている研究開発に意識を奪われていた。現在のメイン研究は洗濯機だが、ふとした機会に硫黄を少量だが入手する事が出来たので、ファクチスの研究も並行して開始する事にした。

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タイヤのゴムに使えるほどの性能があるか不明だが、少なくともゴムの代用品としては申し分ない性能が見込めた。

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(そう言えばえん麦からオートミールを作らないと。離乳食としては優秀なのよね……麦の臭いが強いから、好き嫌いは別れそうだけど)

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栽培したえん麦は秋ごろに植えたが、既に収穫可能なほど成長していた。

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正確な品種名が分からないのではっきり断言は出来ないが、秋から植えれば冬に、春頃から植えれば秋ごろに収穫が可能な成長の早い品種だろうと予測した。

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わざわざ実を収穫する理由は、えん麦から作るオートミールが赤子の離乳食として高いコストパフォーマンスを持つからだ。

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オートミールの作り方は単純で、脱穀した麦を押しつぶしたり挽いて粉状にするだけ。

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カタカナ表記では解り難いがauto mealではなくoat(えん麦)meal(食事)であり、えん麦を用いた食品全般を指す。

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派生商品も多くあり、フスマと呼ばれる水溶性食物繊維に富む外皮のみを使ったオートブラン。

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水やミルクを加えてふやかし、果実やナッツ類を入れたミューズリー。

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砂糖や蜂蜜を加え植物油を絡めてオーブンで焼いたものをグラノーラと呼ぶ。

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何故オートミールが離乳食として高いコストパフォーマンスを持つかは実に簡単だ。

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まずえん麦は栽培の手間がかからない。

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適当な栽培でも旺盛な生命力で勝手に成長していく。無論、適切な環境なら成長速度が更に早い事は言うまでもないが、作物と違って細かく拘る必要がない。

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次にオートミールは玄米と比べて食物繊維が約3.5倍、鉄分は二倍、カルシウムに至っては五倍も豊富な食品だ。ビタミンやミネラル、たんぱく質も豊富で栄養バランスが非常に良い。

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低GI値なので炭水化物の割に脂肪になりにくく、インスリン値が低いので基礎代謝がアップする。

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乾燥食品なので適切な保存をすれば一年近く保つ。雑炊やおじやのようにして食べる事が多い為、すり潰せば離乳食としても使える。

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良い事だらけのオートミールだが、問題がないわけではない。

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まずそのままの状態では、とても食べる事が出来ないほど硬い。次に麦の臭いが強く、人によっては生理的に受け付けない場合がある。そして何よりも、水で煮ただけではまずいという点だ。

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その点をクリア出来ればオートミールは非常に優秀な食品になる。

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(甘くするより、おじややリゾット風が良いと思うんだよね……味噌で煮るとかありか……?)

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「失礼します。静子様、お館様より伝令が参りました。緊急の呼び出しでございます」

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「……また何の呼び出し……?」

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「すぐに来るように、との事しか承っておりません。申し訳ありませんが、お急ぎ下さい。馬廻衆や兵に関しては既に手配しております」

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(そこまでして急ぎの用件はあったかな?)

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ともあれ呼び出しされたのなら応じない訳にはいかない。

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「残念じゃ。仕方ない、料理人どもにははくさいとやらの料理でも作らせるかのぅ」

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「申し訳ありません。この埋め合わせは後日……」

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静子は濃姫に謝罪した後、準備を整えてすぐに信長の元に向かう。

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この時、静子は道中で濃姫のお抱え料理人たちが、遠巻きに見ていた事に気付いていなかった。

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もしも気付いていたら、彼女はまともな精神で信長の元へ行けなかっただろう。

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すれ違う運命になってしまった静子は、その事に気付かず信長の元へ到着する。

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到着直前から日が沈む様子が窺えたので、今夜は誰かの家に寝泊まりになるかなと漠然と予想していた。

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しかしそれは彼女の希望的観測に過ぎなかった。

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その日、信長に呼ばれた一同は途中何度かの休憩をはさみつつも、朝まで街道整備について喧々囂々と熱く議論を交わすこととなった。

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十二月のある日、静子の技術街に信長と主要な家臣団が集合していた。

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今日はこの街で生産された磁器を販売する蚤の市(のみのいち)が催される。磁器の材料を他国に依存している為、織田領内ではおおっぴらに磁器の売買が出来ない。

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しかし商人たちはそれを利用し、出元を偽って他国の人間に高く売っている。

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この様な真似が出来るのは、日本で磁器の生産が行われたのは江戸時代に入ってからであり、それまでは中国が作る陶磁器頼りだったからだ。

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つまり磁器というだけで、例えデザインが好みでなくとも値打ちものになるのだ。それだけではない。磁器は南蛮人にも高く売りつける事が出来る。

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元々、欧州貴族は中国の磁器を「白い黄金」と呼び、熱狂的に支持していた。

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ヨーロッパ磁器の最高峰と賞賛されるドイツのマイセン製品は、世界中で高く評価されている。だがマイセンも元は「日本や中国のような磁器を作りたい」という憧れが磁器生産の始まりだ。

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ドイツのザクセン選帝侯で、神聖ローマ帝国ポーランド王を兼ねたフリードリッヒ・アウグスト二世は熱烈に東洋磁器を愛した。

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ついにはドレスデンのツヴィンガー城に、「日本宮」という収集した日本の磁器を保管する建物を建てた。

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それだけに留まらず、国家の最優先事業として、東洋の磁器のようなものを自国で生産する事業に乗り出した。

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静子の技術街で生産される磁器は、主に三つの色が使われている。

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銅のサビを使った赤色、鉄のサビを使った黒色、そして呉須(ごす)を使った青色だ。

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この三色を使って作られる磁器は深みのある色合いをしており、信長を一目惚れさせたほどだ。

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特に彼は発色が難しい赤色を主とする「赤絵」を好んだ。

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「ほぅ! 今回は随分とあるな」

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信長が上機嫌で手前にある赤絵の磁器を愛でる。

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彼の言うとおり、磁器は様々な種類が並べられていた。前衛的なデザインの器から、食事に使うというより飾るタイプの磁器まであった。

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柄も様々で同じものは一つとしてないのでは、と思えるほど意匠が凝らされていた。

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赤絵磁器と言っても、史実で最初に成功した酒井田柿右衛門の赤絵磁器ほど鮮やかではない。

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静子の技術街は一色の赤しか使用していないが、柿右衛門様式は明るい「花赤」、柿の色を表す深みのある「濃赤」、線を描くための黒ずんだ「カバ」と三種類の赤を使用している。

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その三種類の赤を生み出す調合方法は、酒井田家に伝わる「赤絵具覚」に記載されているが、内容は柿右衛門の名を継承した者のみが知る事の出来る秘伝中の秘伝だ。

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特別に公開された一部には、「塩分を抜いた酸化鉄」を使用する、と材料の一つが書かれていた。

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文字通り酸化鉄を水に浸けて塩分を抜くのだ。この作業は非常に長い時間を必要とし、最低でも十年はかかると言われている。

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柿右衛門様式ではなく別方法だが、赤絵磁器用の赤色を作る手段を静子は知っている。

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しかしこちらも材料を揃えるのに最低でも五年はかかる。それが完成するまで、暫くは銅のサビを使った赤色で代用する以外にない。

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「今回はおよそ四百枚あります。各自、好みの磁器を見つけて頂けると幸いです。では磁器の販売を開催します」

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その言葉と共に磁器蚤の市が開催された。

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磁器蚤の市と言っても、普通の蚤の市と違う所がいくつかある。

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まず売買で動く金の額がケタ違いだ。いくら量産されているとはいえ、磁器はまだまだ高級品の部類に入る。

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また作品を気に入れば『先行投資』という名目で、職人に直接金を渡す事が出来る。

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職人自らが販売する事で中間マージンを無くし、また職人たちは自分たちの評価を直に知る事が出来る。もっとも、これを受け取らない頑固さを持つ職人もいるが。

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(うん、うまく行っているかな?)

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静子は蚤の市の様子を観察する。森可成が大皿を手にとって何度も頷いていた。どうやら彼は、青色で絵付けされた大皿が好みのようだ。

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秀吉は金メッキ処理された皿、竹中兄弟は普段に使えそうなタイプの食器、丹羽は皿よりも壺がお好みのようだ。それぞれが好みにあった磁器を探して購入していた。

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なお、柴田と佐々は非常に前衛的なデザインの皿がお好みのようだ。佐々など、どう見ても食器としての意味を失った皿を見て歓喜していた。

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「おおう、皆凄い喜びよう……私も何か買うかな?」

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しかし静子は信長ほど磁器を高級品と思ってないので、食器以上の価値を見出せず食指が動かない。

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途中職人や家臣たちに声をかけられながら、静子はウィンドウショッピングを楽しむ。

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「お、これは慶次さん向けかな……これは才蔵さん。こっちは勝蔵君かな。この綺麗なのは彩ちゃんに買って帰ろう。うーん、本多様にも何皿か贈るかな」

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結局、彼女は自分の為というより慶次たちのお土産を買うに留めた。

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何しろ彼らは参加者としても、また静子の警護としても参加出来なかった。可哀想だが人選は信長が行ったのだから諦めて貰う他ない。

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「これは静子殿、貴女も磁器選びですかな?」

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声に反応して振り返ると満面の笑みを浮かべた柴田と佐々がいた。

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ちょっとだけ引いた静子だが、彼らは上機嫌を隠そうともせず言葉を続ける。

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「この様な席に招いて頂き感謝に堪えませぬ」

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「左様。そなたを快く思っておらぬ我らも招くその度量に、某(それがし)の狭量さを恥じ入るばかりよ」

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「あ、いえ……招待者を決めたのはお館様なのです……が」

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慌てて否定するも舞い上がっている彼らに静子の声は届かない。

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「おっと、呼び止めて申し訳ない。それでは我らはこれにて」

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「何か困った事があれば、何時でもお力添えしますぞ。失礼仕る」

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口々に静子を褒めそやすと、二人は上機嫌で去っていった。

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残された静子は、ただ呆然と二人を見送る事しか出来なかった。

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磁器蚤の市は大成功の内に終わった。

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色々な後始末を他人に任せて先に帰宅した静子は、買ってきた磁器をそれぞれ渡す。

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慶次には何種類かの酒盃、長可にはどんぶり茶碗、才蔵には湯のみ、彩には彩り華やかな小皿を何枚か渡す。

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忠勝用に用意した平皿を、静子は一筆を添えて一緒に発送依頼する。

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皆、静子がプレゼントした磁器に喜ぶ。慶次など酒盃を受け取るや否や、酒を片手に才蔵と長可を風呂へ誘ったぐらいだ。

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磁器蚤の市が終わった後は平穏だった。だが彼女が落ち着く時間は少ない。

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年末近くまで農作業がほぼない静子は、暇を使って色々な料理を作っていた。

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これは信長から『これぞ岐阜! という特産料理を思いつかないか?』という話を貰ったからだ。

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正式な命令ではなく、どちらかと言えば単に何か良いものがないかという質問に近い。

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色々と作ってみたが信長が気に入るものはなかった。

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大豆から豆腐や油揚げ、油揚げから稲荷寿司、イカ飯、唐揚げという単品から、海老天丼や親子丼などのどんぶり物。

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更には小型の土鍋を使ったきりたんぽ鍋や水炊き、ぼたん鍋などを用意した。鰻も考えたが、鰻は調理が難しい上に、既に宇治川で取れる鰻で作る姿鮨(すがたずし)が評判なので除外した。

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試食係の慶次や長可たちには評判だったが、信長から見れば「どうしてもこれが良い」という気持ちにならなかった。

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唯一、スッポン鍋に信長は興味を持った。

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少し考えてスッポンなら名産品になると考えた静子だが、スッポンを集めるには時期が悪かった。

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スッポンは水温が低いと冬眠してしまうので、冬の時期にスッポンを集めるのは厳しい。

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養殖を始めるには、暖かくなるのと産卵時期である六月まで待つ必要があった。

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(ここに線を引いて……数式に当てはめるとこれだけの距離が必要だから……うん、これで養殖場としての広さは確保した。後は、時期が来るまで放置かな)

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スッポン養殖の始まりとしては十分な広さだ。

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設計図のイメージと現実の広さが一致しているか確認しに行った所、多少窮屈に感じたが問題ないレベルだと感じた。

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そろそろ施設を追加する広さがなくなったが、今のところ施設が必要になる案件はない。

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スッポンの養殖について計画書を纏め、信長に提出する。信長はスッポンが養殖出来るものとは思っていなかったようで、緊急連絡網を使って静子を呼び出した。

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「水温と共食い、騒々しさの問題を解決すれば、スッポンはそこまで難しくありません。とはいっても私も初めての試み。お館様のご希望に応えられるほど、スッポンの養殖が可能かは現時点でははっきり申し上げられません」

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「ふむ……難しい事に挑戦する姿勢は評価する。結果が伴えばなおよし」

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そう言うと信長は小姓を呼ぶ。すぐに一人の小姓が木箱を抱えて彼らの前にやってきた。

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恭しく木箱を置いた後、一礼をして小姓は後ろに下がる。

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「此度(こたび)は先に費用を渡しておこう」

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「え、えぇ!」

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木箱の中は金子(きんす)だった。大金と言っても差し支えない程の額が入っていた。

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今までにない信長の行動に静子は困惑を隠せない。

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「察しが悪いな。わしもスッポン鍋が気に入ったから、こうして資金を出すのだ。つまり、それほど貴様の成功に期待を寄せているのだ」

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「は、はい……ご、ご期待に沿えるよう頑張ります」

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「うむ、何度も言うが期待しておるぞ」

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少しだけ含みのある笑みを浮かべて信長はそう言った。

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目が回るほど忙しい。そんな言葉が口の端に上るほどに年の瀬を迎える信長は精力的に動いていた。

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その成果の中でも義昭を通さず、直接朝廷と繋がるルートを確保したのが一番大きい。

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勿論非公式ルートでのやり取りで、公式には将軍である義昭を通さなくてはならない。

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会社で例えるなら、征夷大将軍である義昭は統括本部長、信長は統括本部配下の一部長という立ち位置になる。

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社員が直属の上司をすっ飛ばして、首脳部である朝廷に直接やり取りなどまずない。それを許せば組織が崩壊する。

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義昭に知られれば不利な立場になるのに、そこまでして朝廷との繋がりを求めたのは理由がある。

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一つは朝廷から寺社勢力を追い出す事だ。朝廷寄りである平家が滅んで以降、朝廷は周りからおんぶに抱っこ状態である。

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その朝廷の中でもっとも影響力を持つのが寺社勢力だ。しかし朝廷への影響力を手に入れるには、正当な理由がなくてはならない。

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そこで利用したのが静子の苗字である綾小路だ。綾小路家は綾小路俊量以降途絶している。

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五辻家から綾小路高有が1613年に入るまで家名再興はない。まさにうってつけの理由だった。

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信長は朝廷に対して献金、そして尾張米や磁器、紙などの日用雑貨類を贈る。

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突然の贈り物に朝廷は驚くのを見越して、信長は理由を書いた手紙を一通添えた。

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綾小路俊量には隠し子が一人いた事、その子は男ではなく女であった為に家歴から抹消された事、それでも得た利益を朝廷に献上する事、病に伏せている為に直接ご挨拶に伺えない事を謝罪する事。

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手紙には虚実を織り交ぜながらも、読む者の心を震わせるよう大げさに書かれていた。

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静子本人が知ったら腹を抱えて笑う内容を、帝である正親町天皇(おおぎまちてんのう)は全て信じた。

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朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけ、殆どの公家や武家からは見放され、献上金など支援をする人物は毛利元就、本願寺法主の顕如、上洛してきた信長だけであった。

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困窮した朝廷の財政と権威が回復したものの、帝は彼らが苦境にある自分たちを助ける為ではなく朝廷の権威を利用する為に献金をしている事を理解していた。

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そういう意味では帝は義昭より自分の立場、そして現実を嫌というほど理解していた。

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だからこそ綾小路家の欲のない献上に心を絆(ほだ)されたのだ。

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帝がこれを無条件で信じたのは、信長が奉呈してきた事に拠るところが大きい。

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もしも自分が信長ならわざわざ綾小路家の名を使って贈らない。自分の名で贈っても、病に伏せている綾小路家の隠し子に知られる事はないからだ。

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噂の内容から帝が想像した信長像は、無償の行為とは対極にいる打算的な人物だ。決してこの様な事をする人物ではない。

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綾小路家の隠し子が名前すら無い事に帝は心を痛め、自分の諱から『仁(他人に対する親愛の情という意味)』の文字を使った『仁比売(ニヒメ)』という名を与えた。

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また信長へ『仁比売(ニヒメ)を療養させるように』との勅命を出す。最後に『仁比売(ニヒメ)』へ『従四位上』の位階を授けるという異例の褒美を与えた。

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同じく献上金をした毛利元就の『従五位下』より高く評価している事が窺える。

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それは同じ贈り物でも、仁比売(ニヒメ)と他で大きな違いがあるのが影響している。

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他の人間は『朝廷など金とものを渡していれば良い』という露骨な考えが見える。対して仁比売(ニヒメ)の贈り物は、相手の為を想って選ばれた贈り物だ。

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甘い事を言っているのは帝自身理解している。

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しかし多くの公家や皇家から見捨てられ、数多くあった荘園の支配権は失われ、武家においては自分たちを利用する事ばかりしか頭にない。

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寺社勢力は例え乱世であろうと、自分たちの権益を守るために犯罪を犯す武装集団となっている現状に嘆く帝は、心暖まる贈り物に涙せずにはいられなかった。

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「……朝廷は良い感じに仁比売(ニヒメ)へ傾倒しておるな」

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帝から届いた書状を全部読み終えた信長は、一息吐いた後に感想を漏らした。

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彼にとって朝廷は利用するだけのもの。しかし朝廷の政治力は侮る無かれ、と考えている。

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故に保険として朝廷とのコネクションを持つ必要があると思っていた。

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「殿がいきなり文を書け、と仰られるから何事かと思いました。それにしても、随分と手の込んだ事を為されますな」

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傍にいる濃姫がくすりと笑う。今、部屋にいるのは世話係や小姓はおらず、二人だけだ。

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「不思議ではなかろう。合戦はそれに至るまでに、どれだけ準備を整えているかが勝負になる。天下統一も同じだ。天下を取るまでにどれだけ天下統一後の準備を整えているかで、その後の平定が数年で終わるか、それとも千年続くかが決まる」

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「その為に、わざわざ綾小路家の再興、という名分を作ったのでございますか?」

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「そうだ」

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「ほほっ、殿が上洛で静子を連れて行った時、妾はてっきり静子を綾小路家の再興に使うと思いましたが……まさかこういう搦め手を講じられるとは。これだから殿は面白うございます」

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「何も不思議ではあるまい。権力を手に入れれば影響力は増そう。だが同時に自由に振る舞う事が難しくなる。静子は今の自由な環境に満足しておる。ならばわしがそれを奪うのは、奴のわしに対する『忠義』に対して不義理を働く事になる」

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戦国時代は江戸時代と違い、家臣は個人に対しての忠誠はなく、家に対して忠誠を誓う。

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武田家の例を挙げると、武田信玄の父である信虎を放逐した家臣団の行動は当時の価値観から見ると一概に不忠者とは言えない。

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彼らが忠義を誓う対象はあくまで「武田家」であり、信虎個人ではない。一方信虎は家臣を顧みず、領民や国人衆に重い税を課し、道義よりも感情を優先するなど統治者としての適性を欠いていた。

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暗愚な信虎を見限り、頭角を現していた晴信(信玄)を担ぎ上げる方が武田家の将来は明るいと断じて裏切ったのだとも言える。

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だからこそ、信長にとって織田家ではなく織田信長という個人に忠誠を誓う静子は、実は非常に貴重な人材なのだ。

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更に「家」に対する忠誠を誓う家臣と、「主君個人」に忠誠を誓う家臣は、互いに派閥を作り諍いを起こしやすいが、静子は衣食住関係を快適にしているため、これも起きにくい。

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「静子は殿に忠義を尽くしておりますからね。そうそう、預かっていろと言われた書物ですが、暇だったので読んでみました」

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「……わしの周りに間者が彷徨いておったから、貴様の所に隠したのだが?」

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「おや、そうでしたか。しかし中々に刺激的な内容ばかりでしたね。武経七書、君主論、戦略論、戦争論、地政学、政治学、組織の作り方などなど多岐に渡っておりました。悩む必要がないほど分かりやすい。出処は静子ですよね?」

(尚未翻譯)

信長は舌打ちする。

(尚未翻譯)

濃姫の私室は隠し場所として優秀ではあるが、本人が読む可能性があった事を失念していた。

(尚未翻譯)

相手の心理を鋭く見抜く濃姫は、文字の読み書きは勿論、幅広い見識を持っている。故に静子の書物も難なく読めた。

(尚未翻譯)

そこを考慮出来なかった自分に苛立ったが、起きてしまったものは仕方ないと思い、信長はため息をつく。

(尚未翻譯)

「妾は君主論が良かったです。殿は君主論について、どうお考えで?」

(尚未翻譯)

「……他国の背景が詳細に分からぬ故、いくつか内容が理解出来ぬ所はある。だがそれを差し置いても、甘ったるい理想を斬り捨て、徹底した現実主義を貫く事は評価出来る」

(尚未翻譯)

「では……ああ、いけませんね。これ以上、殿秘蔵の書物を口にするのは。ですが妾は殿と語り合いとうございます」

(尚未翻譯)

「……相変わらず言葉遊びが好きな奴だ。だが嫌いではないぞ」

(尚未翻譯)

濃姫の言葉に含まれる意味を理解した信長は、口元に笑みを浮かべながら息を吐いた。